KBR50年史 その5

 こうなれば、実際にKBRに在籍していた卒業生の方々にお話を伺うほかありません。

 幸い、今のサークルには、代々の外務が管理してきたOB・OG名簿①があります。名簿には、1971(昭和47)年度卒から、年度ごとの卒業生計400人以上の連絡先などが記載されいています。

 そこで、2005年までに入学した先輩方のうち、住所がわかる101人全員に質問状を送りました。住所が古くなっていたりして届かなかったお手紙もたくさんありましたが、中には熱心に回答してくださる先輩方も多数いらっしゃいました。

 以下では、KBRの歴史を創立期70年代80年代90年代までの4つのセクションに分け、調査の結果をまとめます。

 


①一応、名簿を見るだけでもわかることはたくさんあります。まず、一番古いOBが1971年度卒なので、卒アルにあった最古の写真と卒業年度が一致します。それ以降、毎年1人以上は必ず卒業生のお名前があることから、KBRが現在まで断絶することなく続いてきたとみてよいでしょう。名簿に女性の名前が初めて登場するのは、1988(昭和63)年度からです。KBRに女子マネージャーが加わったのは、この時期からなのでしょうか。名簿には、サークル内で結婚されたと思われる方々や、すでに亡くなったとされる方のお名前も記載されています。私に伝わっている名簿はExcelファイル形式のものですが、これもまた、以前から別の形で記録が継承されていたのだと思われます。名簿は、近年まで夏合宿のOB会の案内ハガキを送るために使われていました。

 

創立期

 2019年8月、KBRの創立期とされる時代のOBに手紙を出すと、意外な返事が返ってきました。なんと10月に、日吉キャンパスで創立1期から4期までの卒業生によるOB会が開かれるというのです。

 これはもう取材に行くほかありません。

 さすがに大先輩の再会の場に私がお邪魔するというのは気が引けますが、幸いなことに、OB会後に時間を取って先輩方とお話する場を設けていただけました。

 OB会は10月26日、日吉キャンパス来往舎のレストラン「faculty lounge」で開かれました。その後、1期3人を含む7人の先輩方と合流し、キャンパスの食堂で創立期のKBRについて、じっくりとお話を聞くことができました。

 私は現役時代、3個上の先輩と話すだけでも緊張した記憶がありました。しかし、そこにいたのは47個上の先輩方で、年齢的には親子どころか祖父と孫に近い年の差です。しかも当時は大学進学率が20%ほどの時代ですから、慶応の学生といえば文字通りのエリートのはず。実際、会社社長や一流商社マンなど、ひれ伏すような経歴をお持ちの方ばかりでした。

 ゆえに、緊張したのは言うまでもないのですが、先輩方はとても気さくに、かつあたたかく接してくださったことをよく覚えています。

日吉の食堂でお話ししたOBのみなさん(左から2番目が創設者)

 さて、KBRの創立者は、1972年に法学部法律学科を卒業された、上野広(うえの・ひろし)さんという方です。

 先輩方によると、上野さんが1年生だった1968年秋、法学部法律学科I組の友達数人に声をかけ、野球の練習を始めたことから、KBRは始まりました。

 ん?

 1968年というのは、冒頭で挙げたKBRの創立年より1年昔です。実際、お手紙でKBRの創立年を聞いたところ、「1968年が(事実上の)創立」とお答えになるOBも複数いました。

 詳しい話を聞いたところ、上野さんの呼びかけで野球の練習が始まったのは、1968年秋ということで間違いないようです。ただ、その時点ではあくまでクラスの仲良しグループの集まりでしかなく、サークルとして勧誘活動を始めたのは1969年春、初の対外試合も同年夏ということですから、それをもってサークルの成立と捉えることもできます。

 結局、KBRが50周年なのか51周年なのかは解釈次第ということにしておきます。これで一応、最初の懸案だったKBR創立年の謎は解けたということにしましょう。

 ところで、一体なぜ1960年代の後半に、新しい野球サークルが生まれたのか。そこには、先輩方が口をそろえて指摘する時代的な背景がありました。

 学園紛争①です。60年代の後半は、全国の大学生が結託して全学共闘会議(全共闘)を作るなど、東大や日大を中心に学生運動が最も盛り上がった時代でした。

 先輩方によると、1968年の夏から秋にかけて、ここ慶應義塾の学生も、学費の値上げに反対したり、米軍の資金による医学研究を批判したりして、大学のキャンパスをバリケードで封鎖するなどしました。おかけで同年の秋学期は、一切授業がなかったということです②。

 よって、当時は時間があり余っていました。先輩方は今になって、「授業がない間は何をしていたのだろう」と首をひねるほどです。

 先輩方は殺伐とした学園紛争の現場から距離を置き、学生運動の象徴だったヘルメットの代わりに野球帽をかぶりました。

 「授業がなくなったので、『クラスで何かしよう』ということになった。癒やしを求めていたのかもしれない」と、あるOBは話します。

 「日吉キャンパスは封鎖され、ゲバ棒が飛び交い、大学の設備は壊され、そんななか多摩川で野球をやっていたわけです」。別のOBは、しみじみとそう回想しました。

 ちなみに「ブルーズアンドレッズ」の名の由来ですが、これは「慶應のスクールカラーをイメージして付けた」ということです。大方の予想通りといえば、予想通りだったでしょうか。「Blue, Red, and Blue!」については、特に関係はないとのことでした。

 


①戦後日本では、大学のあり方に不満を持つ学生が、大学側と衝突する紛争が度々起こりました。「大学闘争」などとも呼ばれ、暴徒化した大学生が東大の一部を占拠した安田講堂事件などが有名です。現在香港で起きている、大学生を中心とした民主化デモと同じイメージでしょうか。

②卒業式すらない年もあったそうです。

 上野さんによると、創立当初の人数は10人前後で、上野さんがチームの管理業務をする「マネージャー的な役割を担っていた」といいます。

 初期の人数についてですが、あるOBが「1チーム編成するのがやっとだった」と振り返るように、初めは当然、人が少なかったようです。そこから考えると、「50年続いたのは奇跡」と語るOBもいました。

 そこから毎年5~10人程度の人が増え、紅白戦が出来るようになったのが実質3年目の1970年頃でした。優勝トロフィーの稿で述べたように、1971年秋(上野さんが4年生の年)には塾内リーグ優勝を果たしているので、始めの数年間で劇的に強くなっていたことがうかがえます。

 練習は、最初期には日吉キャンパス近くのグラウンドで、メンバーが増えてからはガス橋をホームグラウンドにするようになりました①。練習頻度も初めは週1回だったのですが、人数が増えた2年目からは、現在と同じ週2回の練習が確立したといいます。

 「準備体操、キャッチボール、ノック、フリーバッティング、試合形式の練習を順に行っていました」というOBの証言があるように、当時も今のKBRと同じような練習していたもようです。人数が増えてからは、ランナーを塁においての打撃や守備練習といった実践的な練習も行えるようになりました。

 ただ、創立メンバーの方々はみな、野球経験がほとんどなかったそうです。本格的な経験者が入ったのは、実質3年目の1970年のことでした。

 私が現役だった時代、サークルの人数は最大70人を超えていました。プレイヤーは初心者の方が少なく、近年毎年のように関東大会に出場しています。このことを伝えると、みなさんとても驚かれていました。

 


①タマスポの恩田さんが話していた、ガス橋の荷物置き場についても言及されていました。正確には、橋の下(今の公園があるあたりでしょうか)にあった小屋に、荷物を置かせてもらっていたということです。

 次に、今のKBRと大きく異なっていた点として、当時、お酒はあまり飲まなかったことが挙げられます。

 現在のKBRでは野球に次いで、いや人によっては野球以上に、飲み会を重視する傾向があります。しかし、創立期は定期な飲み会というものはなく、練習後に食事をすることはあれど、お酒を飲むことは少なかったといいます。

 その分盛んだったのが、麻雀でした。たしかに昭和の大学生というと、麻雀を好んで打っているイメージがあります。

 実際、「飲み会より麻雀をする頻度が多かった」、「野球より麻雀の方が強く記憶に残っています」、「野球の練習回数より、麻雀をする回数の方がはるかに多かった」などというように、創立期の先輩方は必ずといってよいほど麻雀の思い出について語っていました。

 主に日吉や下丸子の雀荘①を使うことが多く、先輩の家で麻雀大会が開かれたこともあったということです。

 上野さんは三田キャンパス在籍時、期末試験期間中に教室を出ると、メンツ集めのため待機していたチームメイトに連れて行かれたことを、思い出として語られていました。

 後述する初の春合宿では、期間中、毎日雨で、「この時期以降、麻雀愛好家が増えたのかも」と上野さんは言います。雀卓を囲む先輩方の姿が目に浮かびます。

 僕も現役時代に何度か打った記憶がありますが、まさかあの麻雀が、KBRで最も伝統ある競技だったとは思いもよりませんでした。

 


①当時の利用料は1時間40円ほどでした

 合宿は年に2回、春休みと夏休みにありました。複数のOBによると、初期の合宿の日程と行き先は以下に示す通りだったそうです。

 

  • 69年 7月21~27日 長野県軽井沢町(中軽井沢)
  • 70年 8月22~29日 福島県喜多方市
  • 71年 3月      静岡県下田市 …初の春合宿
  • 71年 8月22~29日 岐阜県恵那市
  • 72年 8月22~29日 長野県辰野町

 当時合宿の行き先は色々あったようで、千葉県の勝浦・館山などの名前も挙がっていました。この他にも、有志で九州を旅行したり、冬にスキー旅行にいったりしたことを覚えているという方もいました。

 OBの1人は、夏合宿では朝9時から2、3時間、夕方2時間程度練習していたと証言しました。昼間の暑い時間は休憩していたのでしょうか。

 ただ、未経験者が多かったとはいえ、合宿中の練習自体は相当ハードにこなしていたもようです。

 「猛練習の末、夕食が喉を通らなかった」「半端でない暑さのなか、倒れることなく頑張り抜いた」「浅間山を見ながら真っ黒になって練習した」

 これら姿は、どこか今のKBRと重なるものがあります。

 現在は合宿のほかに、BBQや三田祭など、年間いくつかのイベントを行っています。創立期にも唯一あったイベントは、「早慶戦」でした。

 最近までは、早慶戦後に新橋で飲むのが恒例でしたが、当時の場所は銀座でした。店の名前として、「ライオン」などが挙がっています。

 サークルのメンバーについてですが、当時は下宿生が多かったといいます。下宿先にも電話はあったようでしたが、「急な用があれば電報で連絡を受けたことを覚えています」と話すOBもいました。

 今では実家から通う学生の方が多いこと、連絡はLINEで全部済ませていることなどを伝えると、先輩方はどこか感慨深そうな表情を浮かべていました。

 その頃のサークルの雰囲気を振り返ってもらうと、「先輩後輩というより友達同士。和気藹々とした雰囲気」、「なごやか」、「アットホームな雰囲気」、「家族的な雰囲気」といったの言葉が飛び交いました。

 上野さんもまた、当時のKBRの雰囲気について、こう説明しています。

 「当初のメンバーを中心に、1年、2年と育っていったチーム。先輩などという意識はなかく、全体として『家族的な』感じが強かった。その雰囲気が後から入部してきた人に伝わり、経験者も我々初心者と仲良くしてくれた。これがサークルが長続きした要因になったのでは」

 人数が少なく、初心者も多い。飲み会はあまりやらないが、会員同士の結びつきは強い。今でも塾内には結成されたばかりのサークルがいくつかありますが、これらの特徴は当てはまっているのではないのでしょうか。かつてはKBRも、そういった新興サークルの一つだったということでしょう。

 主な試合は、優勝トロフィーの稿でも紹介した「慶應塾内リーグ」です①。リーグの発足時期は不明ですが、KBRは途中から加盟したチームの一つのようでした。

 チーム数についても、証言によってばらつきがありますが、KBRのほかシャークス・エトワール・フラミンゴの3チームは確実にリーグ戦に参加していたようです。上野さんによると、エトワールはKBRと同時期に、商学部を中心に作られたチームだった一方、シャークスとフラミンゴはKBRよりも歴史が古く、メンバーも強力でした。

 エトワールとフラミンゴは、すでに消滅しています。ここまで、フィリーズの名前も出ていません。よって、旧塾内リーグのチームで最古参なのは、一応シャークスということになります。

 一方、2015年の新歓オリエンテーション冊子に「50年以上の歴史がある」と書いているユニコンズのように、塾内リーグの経験がなくても、長い歴史を持つとされるサークルもあります。丘の上ヒルズのように前身(丘の上硬式野球部)の歴史が長いケースもあるため、一概にどこのサークルが一番古いとは言い切れません。ただ、少なくともKBRが、それらのチームに匹敵する長い歴史をもっているということは断言できると思います。

 先輩方によると、実際、塾内リーグ以外にもかなりたくさんの野球サークルが存在していたとのことでした(一説には20以上)。

 初期のOBには「KBRは強くなかった」「エトワールには歯が立たなかった」「シャークスは強敵だった」などと振り返る人もいました。ただ、塾内リーグの優勝チームが毎回変わっているところをみると、長期的な実力は均衡していたのかもしれません。

 また、優勝トロフィー以外にもいくつかの賞が存在していたようで、「首位打者賞の小さなカップをもらった」というOBもいました。

 慶応の大学生協に行くと、今でもオリジナルのトロフィーを作るサービスが提供されています。現存する塾内戦は塾内トーナメントのみですが、こんなふうに仲間内でたたえ合う制度があったら面白かったな、と思いました。

 


①他大のチームとも試合をしていました。一橋大(いっきょう)のチームと国立で練習試合をした後、周辺に雀荘が見つからないことに気付き、「一橋生はまじめだなあ」と一同感心したそうです。

 こうしてOB会では、先輩方から興味深いお話をたくさん聞くことができました。さらにありがたいことに、当時のKBRを写した写真もたくさん提供していただきました。

 50年前は、今のように毎年何千枚も写真を撮ることはできなかったはずです。その頃の写真が今日まで残っているということは、先輩方がそれだけ当時の思い出を大切にしてこられたということなのだと思います。

前列右が上野さん

 上野さんによると、この写真はKBRの第1回夏合宿が始まった1969年7月21日に撮影されました。この日は、アポロ11号が初めて人を乗せて月に降り立った歴史的な日でもあります。

 KBRとして初の対外試合が行われたのも、この夏合宿中でした。「慶応の野球部が合宿に来ている」と聞きつけた地元農協の年配野球チームに試合を申し込まれ、「ボコボコにされた」と先輩方は笑っていました。

 写真のユニフォームは神田のユニフォーム店で作ったもので、本家野球部と同じデザインです。これが上記のような勘違いを生み、「早く一軍を出せ」とまで言われることがあったため、卒業アルの稿で紹介したシンプルな「KBR」ユニフォームに変更しました。その後、上野さんたちが卒業してから、再び本家のユニフォームに先祖返りしたということになります。

 ちなみに、最近は白黒写真に無料で着色できるサービスがネット上に存在します。それを使ってカラー化すると、以下のようになりました。

 写真をよく見ると、驚くことに女性がたくさん写っています。ただ、これはマネージャーではなく、たまたま近くに合宿に来ていた白百合女子大の学生で、KBRの誰かが誘ったのではないかということでした。

 積極的ですね。話はこれで終わりません。

 上の写真は69年の秋、山中湖で撮影されてカラー写真です。夏合宿で声をかけたのをきっかけに、白百合の学生と合同バスハイキングに出かけたときのものでした。

 時代背景として、60~70年代、男子大学生が女子大の学生と集団でハイキングに出かけること(合コンならぬ「合ハイ」)がはやっていたと、どこかで聞いたことがあります。4年制大学に進む女性が少なかった時代、女子大の偏差値も相当高かったといいます。まさにエリート同士の交わりだったのでしょう。

 このハイキング中、自由行動でボートに乗った数人が、帰りの時間までに戻ってこなかったことがありました。上野さんは残りのメンバーを先に東京に帰し、行方不明の数人が戻るのを待ちました。湖にモヤがかかり、「これは新聞沙汰になるぞ」ととても心配しましたが、やがて何事もなく戻ってきたそうです。上野さんの思い出話でした。

 こうして、先輩方が懐かしそうに話していた白百合との合同バスハイクでしたが、開催はそれきりでした。当時は連絡手段が限られていたため、その後の関係は続かなかったということです①。

 このほか、先輩方からいただいた(主に合宿の)写真を、以下に紹介します。

1970年、福島県喜多方市での合宿1


1970年、福島県喜多方市での合宿2


1971年、福島県喜多方市での合宿1


1971年、岐阜県恵那市での合宿2

 


①時代は巡って、私の現役時代には白百合の学生がKBRに在籍していました

 最後に上野さんから、50周年を迎えたKBRに対して、ビデオメッセージをいただいています(編集前のノーカット版も)。

 創立期メンバーによるOB会は、2017年に何人かのOBでたまたま集まって以来、毎年開催しているそうです。2019年のOB会終了時点で、すでに来年の日程も決まっています。サークルの公式行事として5年周期の記念パーティーを開いていますが、数回前までは創立期メンバーも参加されていたとのことでした。

▷▷▷その6