KBR五十年史 その4

 物証には限りがあります。そこでKBRの過去を知っていそうな人物を探し、直接話を聞いてみることにしました。

 

多摩川スポーツ・恩田さん

 まず思いつくのは、「タマスポのおじさん」こと多摩川スポーツ①の店主・恩田仁さんです。プレイヤー、特に代表や会計など一部の役職はいつもお世話になっているはずです。

 多摩川スポーツは、KBR創立の年とされる1969年の2年前、1967年にゴルフ用品店として開業しました。今年で創業53年目となります。

 恩田さんは40年ほど前、2代目として28歳で店主を引き継ぎました。その際、今の4分の1ほどの面積だった古い店を建て直し、現在の店舗が完成しました。

 ずっと住んできたという下丸子の町並みの変化について聞くと、「店は4、5軒しか残っていない。あとはみんな、塾と歯医者とマッサージ屋になってしまった」と回想していました。

 


①下丸子駅からガス橋グラウンドへ向かう途中にあるスポーツ用品店です。マネージャーにはあまりなじみがないかもしれませんが、KBRのユニフォーム(学ユニ、黒ユニとも)やTシャツのほか、ボール、防具といった野球道具など、チーム用品の多くがここで購入されています。またありがたいことに、お店の一角をチーム専用の荷物置き場として使わせていただいています。

 恩田さんによると、タマスポと最も古い付き合いがあるのはサンダースでした。その後サンダースの紹介を受けたフィリーズ、KBRという順番で続いたそうです。

 恩田さんはこのほか、エトワール、シェルズ、ロイヤルズなど多くの慶応サークルのユニフォーム作りに携わってきました。2019年現在、タマスポでユニフォームを買っているのはKBRとフィリーズのみだということです。

 今のようにお店に荷物を置かせてもらうことを、最初に願い出たのはフィリーズでした。その2、3年後、KBRのスペースも用意されました。その頃には2チームとも、タマスポとまとまった金額の取引があったようです。

 恩田さんは当初、「ベース①とボールぐらいならいいですよ」という条件で、荷物置き場の使用を認めました。現在のような柵もなく、「この辺においてください」というアバウトな約束だったそうです。

 ただ、次第に個人の所有物など、何でもかんでも置かれるようになってしまったと、恩田さんは笑いながら振り返りました。その後もほかのサークルから「荷物を置かせてほしい」という要望があったそうですが、スペースの関係からお断りしたそうです。

 ところで、KBRがタマスポの荷物置き場を使わせてもらう以前は、たくさんの荷物を一体どこで保管していたのでしょうか。

 恩田さんによると、かつてガス橋の入り口(池上署ガス橋交番の向かい)に「駄菓子屋のような店」があり、KBRはそこに荷物を置かせてもらっていました。練習後は、いつもそこで飲み食いをしていたのではないかということです。

 当時多摩川の土手沿いには、NSK(日本精工)などの大規模工場が立ち並び、飲食店もたくさんありました。しかし、2000年頃には工場がそろって転出し、現在見られるようなマンション群が建設されたようです。私の現役時代は、ときどき応援の騒音で警察や住民の方からお叱りを受けていたので、その頃が少しうらやましいような感じもします。

 


①現在はグラウンドに備え付けのものがあるのですが、当時は自前で持ってきていたようです

 KBRが荷物を置くようになった1、2年後、現在と同じ黒いユニフォームが製作されるようになりました①。

 さすがの恩田さんも、KBRがユニフォームを変更した経緯まではわかりません。ただ、理由の一つとして、「うちで作った方が安かったからではないか」と推測していました。

 現在もタマスポでユニフォームを作ると、チーム名や背番号などの刺繍を、メーカーではなく店舗で引き受けてもらえます。このため、一般的なスポーツ用品店で購入するのに比べて、いくらか割引してもらっているのです。

 卒アルでも確認した通り、もともとKBRのユニフォームは体育会野球部と同じデザインで、袖にのみ「KBR」と書かれたものでした。昔は慶応のほとんどサークルが、本家野球部と同じデザインだったそうです。

 KBRの古いHPを見る限り、黒いユニフォームに変わったのは2000年代前半のことと思われます②。ですからタマスポとは、少なくとも15年以上のお付き合いがあるということになります。

 


①13世代までのユニフォームには、袖に製造元であるナイキのロゴが入っていました。しかし2010年代前半、ナイキが野球用品の国内販売を縮小させたため、14世代以降はミズノ製に変わっています。学ユニについては、「ここ10年くらい毎年2年生が作っている。今作っているのはKBRくらい」と話していました。

②2003年入学の選手プロフィール写真では、新旧のユニフォーム姿が混在しています。

 最後に恩田さんから、KBRに対し、

「いつもお世話になっております。ユニフォームを買ってもらうときはいつも、『担当者は大変だな』と思っています。代金を立て替えてもらっている姿などを見ると、『学生さんだなあ笑』という感じがします。翌年まで持ち越してしらばっくれるサークルがある一方、KBRさんは毎年年末までに必ず払ってもらえるので、助かっています。これからもよろしくお願いします」

とのメッセージをいただきました。

下丸子駅から徒歩6分のところにある多摩川スポーツ

 

リゾートインあおの

 近年、毎年の夏合宿でお世話になっているリゾートインあおのでもお話を伺いました。

 ただ、さすがに毎年多くの団体が合宿に訪れるためか、KBR自体の記憶はあまりないようでした。一応年配の職員さんから、代表を通じて以下のお話を聞いています。

「(KBRのイメージは)かわいい。言うことを聞いてくれる。昔、100人くらいが駐車場で入り乱れていたことがあり、うるさいと苦情があった。しかし注意したら、すぐに撤収したくれた。またあるときは、他団体が救急車沙汰を起こし、飲み会を2時間にするよう消防から言われたこともあったが、KBRは実際に宴会を2時間にしてくれた」

 正直思い当たる節は乏しいのですが、せっかくこう話してくださったので、これからも職員さんの言うことを聞くようにしましょう。

 100人という数字は定かではありませんが、人数が特に多かった10年ほど前の話なのではないかと推測されます。

リゾートインあおの。看板を見ると、Resort “in”ではなく”inn”なのでは、といつも思ってしまいます

 

進学研究会・辻さん

 本題とは少し離れますが、このところKBRがいつもお世話になっているバイト先があります。進学研究会による高校受験の模擬試験「Vもぎ」の運営バイト①です。

 毎週日曜の朝、池袋にある豊島学院高校の会場でお世話になっています。ある時、進学研究会の辻鉄矢さんからお話を聞いたことがありました。

 辻さんが豊島学院の会場を担当し始めた頃には、すでに前任の坂さんという方のもと、KBRの模試監バイトが行われていたそうです。坂さんが関東第一高(江戸川区)の会場に異動したため、辻さんがKBRを引き取る形となりました。

 初めは07世代の方がバイトのまとめ役を担っていたということですから、少なくとも十数年はこの模試監バイトが続いていることになります。辻さんは「坂さんも別の人から引き継いでいるのではないか」と話していたので、模試監バイトの歴史はさらに長い可能性もあります。

 豊島学院が辻さんの担当となって以降、まとめ役は2019年で5代目まで引き継がれました。辻さんは「野球以外の他サークルがバイトに来てくれたこともあったが、KBRが一番長続きしている。特に15世代の代表がKBR以外の人とも打ち解けて、職場の信頼が強化された」と感謝していました。

 あくまでKBRのメインの活動とは呼べない模試監ですが、私自身、良い思い出がたくさんありますし、これはこれで今後も長く続いてほしい伝統の一つです。

 


①なぜかKBRでは「もしかん(模試監)」という呼称が定着していますが、厳密には本部での事務作業が中心となります。

 

鈴村先生

 最後に一人、KBRの歴史に深く関わっていそうな、重要な関係者がいました。公認サークル時代に顧問を務めていた、鈴村直樹先生です。形式的にとはいえ、公認サークルも部活動と同じように、必ず顧問の先生が1人付くことになっています。

 しかし結局、鈴村先生とお会いすることはできていません。報道によれば、鈴村先生は2018年に亡くなったとされています。KBRがサークルとしての公認を取り消された、2年後のことになります。

 


①インターネット上の情報では、2018年5月16日、病気のため54歳で亡くなったとされています。鈴村先生は経済学部の教授で、語学担当としてドイツ語を教えていたといいます。ネット上には、とても温和で親しみやすい先生だったとの書き込みもありました。フェリス女学院大と関わりがあったという話を、私は以前どこかで聞いた気がするのですが、いつ頃、どんな経緯で顧問になったのかなど、詳しいことはわかりませんでした。

 以上が、私が思いついた限りのKBR関係者です。貴重なお話がたくさんあった一方で、肝心のKBRの創立時期など、正直まだわかっていないことだらけです。

▷▷▷その5