KBR50年史 その6★

上野さんら初代メンバーが卒業した1973年から、分野別に、アンケートの主な回答を抜粋します(目次下)。一部途中ですが、そのうち文章にまとめます。

(かっこ内の数字は卒業年の下二桁。「OG」表記がない場合はOB)

試合

普段の試合は、シャークス、フラミンゴ、エトワール、フィリーズとKBRでつくる「慶応塾内リーグ」が中心でした。80年代には春秋の2回、リーグ戦が行われていました。六大学と同じ形式です。ユニフォームも同じ

最終週「各2試合行っていた」(82)

「春秋」(81)

「秋のみ」(86)

「春秋」(78)

5チームではリーグ戦以外にも練習試合を行っていたようです。結びつきがかなり強かったことがうかがえます。

塾内のチーム数は

「20チーム近く」(79)

「20チームくらいあったと聞いた」(81)

「10以上はあった」(82)

「テニスサークルと野球サークルが同程度、30位あった」(84)

「約20チーム」(86)

「20~30位あったのでは?」(78)

リーグに参加していないチームとの交流は少なかったそうです。「よきライバルで仲も良かった」(82)

「78年頃に優勝した記録があります」

「練習試合も塾内中心だった」

慶早戦は春秋とも土曜日に行っていました(81)

 

終了後は銀座のビアガーデンで飲んだ後、「日比谷公園噴水ダイブ(文字通り飛び込む)」をするのが定番だったということです

86は「毎年フィリーズが優勝。KBRは2位が最高」と答えました。この頃からフィリーズは手ごわいライバルだったようです。

上位2チームが、早慶2チームずつの対抗戦に進出していた

「84年は6勝1敗同士で最終戦を迎え、負けた」など細かく覚えていたOBもいました。

「在校中は優勝はなかったが、上位ではあった」(75)

「フィリーズ、フラミンゴが強かった」(89)

「30チーム程あったと思います。ライバルはフィリーズでした」(03)

「塾内リーグ・塾内トーナメントに参加し、最高成績は塾内リーグ優勝、トーナメントはベスト8が最高だったと思います。ほぼ毎週練習試合か春秋のリーグ戦を行っており、勝率は7割くらいだったと思います」(03)

 

イベント

イベントについて尋ねたところ、やはり回答があったのは慶早戦でした。

六大学野球は、慶早戦以外にも有志で明治神宮球場を訪れて観戦していたそうです

終了後はやはり「日比谷公園噴水池は恒例」(82)とのことでした。前述のダイブでしょうか。

近年は三田祭やバーベキューなど多彩なイベントを売りにしていましたが、それは最近のことのようです。

94OGは「慶早戦しかなった。あとは他のサークルと飲んだりした」と振り返りました。

 

一つ印象的だったのが、回答してくださったOBの皆さんがもれなく「慶早戦」という言葉を使っていたことでした。いまも塾内では「慶早戦」と呼ぶことが推奨されていますが、KBRを含め塾生のあいだではすっかり「早慶戦」が定着してしまっています。メールで答えていただいたOBも「慶早戦」と書いていました。普通のパソコンでは一発変換できないのではないかと思いますが、絶対にこの言葉を使うという強い意志を感じます。私のパソコンも、この原稿を書くときに何度も入力して覚えました。みなさんも繰り返し使いましょう。

 

89年まで三田祭に出店していたという証言はありませんでした。秋のリーグ戦最終週がこの頃だったことが関係しているようです

三田祭出店は私が初代店長!定着してうれしいね!他には慶早戦、新歓合宿(富士急ハイランド)とか。(自分は)まじめに野球してなかった」(03年)

この頃、富士急ハイランドとみられる遊園地を訪れている写真がHPの中に残っています。

「早慶戦をクラブで観戦に行ってました。試合後は銀座や渋谷で飲み会もやっていました。三田祭は何もなかったですね」(79)

「バーベキューもない。忘年会やボーリング大会」(89)

「春秋早慶戦」(78)

「秋にリーグ戦」(89)

「春秋早慶戦」(89)

「春秋の慶早戦観戦。三田祭出店くらいですかね」(03)

草創期の卒業アルバムに写真があった「Brigand」ユニフォームについては、後の世代のOBも詳細はわからないとのことでした。

「Brigandなどという文字は入っていせんでしたし、聞いたこともありません」(79)

 

合宿

夏合宿は8月下旬に1週間程度行っていたといい、現在と同じです。ただ、場所は長野県辰野町の「荒神山スポーツ公園」と決まっていました。「たつの荘」多分今はない、夏は

「春と夏は1週間程度。春は岐阜・長久手の運動公園。夏は信州・辰野。合宿の途中でOBを招いて紅白戦なんかもやっていました」(79)

コロナ禍前まで夏合宿の恒例イベントだったOB戦は、70年代から行われていた形跡がありました。

「1年は岐阜・恵那。2年からはたつの。夏休みの後半1週間弱」(75)

「OB戦もやっていた」(89)

「一回清里高原でも実施」(78)

「夜は飲み、肝試し」(89)

「たつの」(90OG)

「(合宿は)練習より飲み会しか記憶にありません。モノポリーばかりやっていた」(94OG)

春合宿は3月に5日間ほどで、やはり練習をしていたようです。

「名古屋藤が丘?青少年センター?」(78)

「名古屋長久手の青少年公園が多かった」(82)

「4日、適宜選定」(84)

「伊豆(白田)、静岡(三保松原)」(86)

「伊豆が多かった。結構真面目に練習していた」(89)

「8月長野」(02)

2000年代になると、現在のスノボ合宿のような様々な合宿も行われていたようです。コロナ禍前まで夏合宿の定番だった茨城県神栖市波崎の地名も登場します。

「夏は福島、波崎、静岡で開催していました。ほぼ野球と飲み会だったと思います。スキー合宿と新歓合宿も行っていた」(03)

「福島の泉崎だったかな。私があばれて出入り禁止になったと聞いたが真実は不明」(03)

 

飲み会

一部では野球と同じかそれ以上に力が入っている飲み会ですが、創立期メンバーへの聞き取りと同様、初期はほとんど飲み会をしないサークルだった様子です。

「(飲み会は)早慶戦応援終了後に行ったことは覚えている。年に1、2度あったかな?」(75)

「新歓・忘年会。日吉「梅寿司」が多かった記憶」(78)

「練習や試合の後、決まった店で食事(ビール付)をした後、大体決まったメンバーで麻雀をしていました。公式な飲み会は新歓と追い出しコンパくらいだったと思います」(79)

「飲み会はあまり多くなかった」82

「喫茶店にいった」(86)

「いずれも場所は下丸子」(86)

「公式の飲み会は新歓、追いコン、慶早戦後の3回で、その他にも個別に、様々な単位で行っていたといいます。練習の後に自由意思で

昭和の時代のため一気飲み」(84)

80年代後半には、現在と同じような場所で週1回程度飲み会を開いていたという証言があります。

「下丸子の居酒屋、その他は渋谷。週一。必ず全員が出たわけではない」(89)

「いつもは下丸子たまに渋谷。(雰囲気は)和気藹々」(89)

この頃はまだ、飲み会の雰囲気はそこまでハードではありませんでしたが、90年代になると様子が変わってきます。

「田町や赤坂(カプリチョーザ)。頻度は多かった。雰囲気も楽しかったが、毎回トイレ組がいたような…。練習より飲み会しか記憶にありません」(94OG)

「練習後、下丸子の駅前にある喫茶店『コロラド』によく行きました」(90OG)

「土日は試合の後に下丸子の居酒屋で飲み会。たしか『つぼ八』かな。ゲロ吐きまくって楽しかった!」(03)

「急性アルコール中毒になった後輩がいて、当時の日吉代表が顧問の教授に説教されていました。飲み過ぎ、過度な飲酒にはお気を付けください」(03)

「試合・練習後に下丸子、自由が丘で和気藹々とした飲み会を開催していました」(03)

この時期から私が知るようなKBRになっていたのだと思われます。現在は礼節正しいサークルになったと聞いています

 

練習

「目蒲線・下丸子から徒歩10分くらいのガス橋グラウンド。火・木は普通の練習。土曜日は他チームとの練習試合だったと思います」(79)

「週2。時々ボーリング」(02)

「練習は火・木。試合は土曜に下丸子のガス橋グラウンドで行われていました」(03年)

「週2回程度ガス橋グラウンドだったけど、あまり集まらなかった。2、3人でキャッチボールしかできないこともあった」(03)

2010年代後半にも、平日はまれにこういった事態が起こりました。

週2。時々ボーリング(92)

 

 

雰囲気

「野球もさりながら、練習後の麻雀の方が強く記憶に残っております」(73)

「他女子大との合コンは機会があればやっていました」(73)

「体育会系の上下間の厳しい関係がなじめず、そんな中入部したKBRでしたので先輩後輩の仲良くしていただいたと思います」(77)

「和気藹々。麻雀をいつも練習後に皆でやっていた」(84)

「人数は少なく、こぢんまりしていたが、団結力あり」(86)

「和気藹々、上下関係もゆるかった」(89)

「まったくアットホーム※麻雀が好きなサークル」(78)

「紳士的な方が多かった。とても良いサークルでした」(94G)

「ゆるーい感じが良かった。野球好きには不満だったかも」(03)

「特に世代の呼び名は無し」(03)

「真面目すぎない野球サークルだったと思います。飲み会もそこまで激しくなかったですし」(03)

 

マネージャー

初めは男だけで始まったKBRですが、遅くとも70年代末からは女子マネージャーが参加したこともあったもようです。

「他大の女子マネージャーはいた時期はあります」(79)

「大妻女子短大から3人」(84)

これまで、他大学の男子学生が参加したことがあるという情報は確認できませんでした。

「83年の卒業生に大妻短大3人。いれかわり83~84年度にも大妻短大3人。85年度は東洋英和、東横、大妻の各短大が2人ずつ。85年に5~6人、サークルの先輩のつながりだったのでは。経緯分からん」(89)

「入部したときには既にいました。OGからの紹介や、女子大に勧誘に行っていました。マネージャーと結婚した者が何人かいました」(89)

「86年、フェリス女学院大入学時、KBRの方たちが勧誘のチラシを配り来ていて、サークルに入ることにしました」(90OG)

 

人数

「30人くらい。常時出席者は多いときで15~20人くらい。私が3年の時に初めて参加(東横学園3)」(78)

「30人くらい」(79)

「20~30」(86)

「20人くらい」(89)

「20人台」(89)

「30人前後位」(90G)

「20~30人。男女比は3:1くらい? マネージャーは大妻・共立・目白・専門ほか」(94G)

「1学年10人程度だったかと思います。男女比は7:3くらいかな。東洋英和と清泉が主流でした」(03)

「約50人。男4:1程度だったと記憶しています。マネージャーの所属大学はフェリス、東洋英和。恵水女学園で、慶応のマネージャーは皆無でした」(03)

「10数人ぐらい」(92)

「71年は20人強。その後もその程度」(75)

 

思い出

「1979年頃には都内のホテルで10周年記念パーティーがあった。400勝投手・金田正一氏をたまたま見かけ、とんでもない迫力とオーラに圧倒された」

「私たちの頃はクラブとゼミが大学生活そのものだったので特に印象的な出来事というのもないですね。試合でのいろんなプレーは断片的に覚えているものもありますよ」(79)

「麻雀をよくしていた、冬に横浜スタジアムで紅白戦」(89)

「試合後に有志OBでチームを作り、大田区の社会人草野球大会に出場していました。もう消滅しちゃいましたかね…」(03年)

「12月の平日午前(か午後)2時間くらい横浜スタジアムを借りてグラウンドを使わせてもらった。私たちもバッターボックスに立たせてもらったりしました」(90OG)

「東京駅の『大須ういろう』が歴代のバイト場所だった。いつもそこで遊んでいた」「ウーロン茶にかける青春なるものがあった(賭け)」「練習より飲み会しか記憶にありません。モノポリーばかりやっていた」(94OG)

「後輩の○○君が僕の彼女(マネージャー)を本記で奪おうとしてきた!マジ怖かった~」(03)

「全員の記憶に残っている悲しい出来事があった」