卒業アルバム
ここで、すぐに入手できる資料はなくなってしまいました。
次に考えたのは、大学の卒業アルバムを見るという方法です。卒アルには、毎年学生団体の集合写真を載せるページがあります。
早速三田キャンパスの図書館でアルバムを探したのですが、近頃は個人情報保護の観点から、大学の許可がないと閲覧できない仕組みになっているとのことでした。仰々しい申請書を提出し、待つこと2週間。KBR以外の写真が見られないよう、丁重に縛られた卒業アルバム20年分を調べました①。コピーも撮影もできなかったので、以下内容を言葉で説明します。
①あまりに量が多いので、2回に分けて閲覧しました。私は遠隔地に住んでいるため、2回目は代表にお願いして見てもらってきました。
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一番古い写真が載っていたのは、1972年度のアルバムです①。団体名は、「ブルーズ・アンド・レッズ」。そして、そこに写っていたのは……
3人だけ!
もっともこれは慶応を卒業する4年生のみの写真ですから、サークル全体の人数が3人だったわけではないはずです。ただ、それにしても少なく感じられます。今でこそよくサークルの人数が減ったと言われていますが、こうしてみると、決して昔から人数が多かったわけではなかったことがわかります。
そして、たった一枚の写真ですが、いろいろな事実が見えてきます。
個人的に驚いたのは、ユニフォームの左胸に「KBR」と書かれていたことです。私はてっきり、KBRという略称は後の世代の人たちが勝手に言い出したものだと思っていたのですが、実は創立期から存在する立派な呼称だったんですね。
当時のユニフォームは、まっさらな地に、おそらく紺か黒で②「KBR」とだけ書かれたシンプルなデザインでした(1人は「K.B.R.」)。左袖には慶応の塾旗にちなんだ三色のワッペンが付けられています。帽子は「K」の一文字で、今の帽子に近いフォントです。
背景には野球場のネットのほか、物置小屋と土手のような斜面、そして道路がありました。道路沿いには白っぽい杭が並んでいて、よく見るとガス橋のようにも見えます。
写っていた3人のうち、2人はバットを持っていました。もちろん、木製バットです。
①1972年3月の卒業生は、1968年4月に入学した計算になります。1969年創立が正しいとすれば、3人が2年生のとき、当時の1年生たちと一緒にKBRを立ち上げたということになります。
②写真は近年まで全部モノクロのため、写っていたものの正確な色はわかりません。
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このほか、翌73年度のアルバムは欠本のため確認できず、74年度のアルバムには写真の掲載がありませんでした。以下、75年度から90年代までのアルバムに残っていた写真を一気に紹介します。
- 75年度―人数が増え、13人。団体名が「軟式野球同好会ブルーズアンドレッズ」となる。以降のアルバムでも同名。ユニフォームが変わり、全胸の「KEIO」表記になる。本家・体育会野球部に近いデザイン。ソックスにも本家同様のラインがある。左袖のワッペンは、72年度のものに「KBR」の文字が入ったオリジナルデザインに。帽子のフォントも変わり、セリフが付いた独特なものになる。背景にテニスコートと木。人影が多い。慶応の敷地内?
- 76年度―6人。背景にバックネットのフェンス。「ガス橋/野球場/大田区/8」の文字が読み取れる。ベンチ裏の芝に荷物を置いている。
- 77年度―6人。うち1人のズボン左上部に「15」の文字。同様の数字は78、84年度の写真でも確認。その人の背番号?背景に多摩川。
- 78年度―8人。胸の「KEIO」がやや小さくなる。地面にポールを差し、真新しい三色旗を掲げている。旗の下部に、白字で「軟式野球同好会/K.B.R.」。2人×2組がバットをクロスさせている。三色旗にちなみ、ペンマークの意味?
- 79年度―6人。1人の左袖に「ST…」の文字。「STAFF」?別の4人は、全胸に筆記体で「Brigands」と書かれたストライプのユニフォームを着ている。袖と型には太めのライン。
- 80年度―6人。1組がバットをクロス。左袖に「KEIO」ワッペン。ただし現代表曰く「本物でない」。人物の後ろに三色旗。78年度と同じもの?
- 81、82年度―写真なし
- 83年度―10人。うち2人は私服の女性。「KBR」ワッペンに戻る。背景のグラウンドに、同じユニフォームの男性7人、女性2人が写り込む。
- 84年度―6人。
- 85年度―6人。木製バット1本のほか、金属バット①1本が初出。
- 86年度―7人。この年のみ全員で肩を組む。
- 87年度―5人。
- 88年度―8人。森の中で、何かの碑文の前。全員半袖のため、夏合宿?
- 89年度―12人。三田の図書館前?全員私服。1人が両手を広げ、寿司ざんまいのポーズ。
- 90年度―写真なし
- 91年度―4人。うち3人はスーツ姿、1人は私服。ガラス張りの建物前。
- 92~95年度―写真なし
- 96年度―6人。団体名が英語表記に。三田の諭吉像前。全員私服。
- 97~99年度 写真なし
76年度のアルバムによって、写真の背景はガス橋②だったことが確かめられました。もちろん当時、土手の向こうには現在のような高層マンションは建っていませんし、そもそも建物のようなものは一切写っていませんでした。
ただ、みんなの荷物をベンチ裏の芝に並べる光景は、今とまったく変わらないものだったのが印象に残っています。
77年度に写っている多摩川の向こう岸には、家や鉄塔、煙突などが並び、これもまた現在とかなり近い風景でした。上の表は特記がない限り、全員ガス橋でユニフォーム姿です。
ここまでの写真を見ると、初期のKBRは、チーム名はもちろん、ユニフォームやワッペン、三色旗など、かなり慶応色の濃いチームだったことがうかがえます。
また、やはり古い写真ですから、写っている先輩方はどこかその時代の雰囲気を感じさせます。83、84年度の16人は、流行なのかみんな長髪でした。89、91、96年度は私服の人が写っていますが、半数以上が白のチノパンでした。これも今の感覚でいうと、かなり高い割合です。
また少し前までは、高校生を中心に帽子のつばを曲げるのがはやっていたように思いますが、これは松坂大輔さんらが活躍した90年代以降のことと言われているようです。実際昔の写真では、みんな帽子のつばはまっすぐ水平にしていました。
写っていた方々は、いわゆる慶応ボーイといった感じの好青年もいれば、もっさりした人、おちゃらけ役だったのかと想像させられる人など、様々です。これは私の同期のだれそれにそっくりだな、と思うこともありました。いつの時代にも同じようなキャラがいるものだということなのでしょうか。
写っていた人数は、6、7人程の写真が多いようです。先述の通り、卒アルの団体写真は慶応の4年生のみで撮ることになっているはずなので、この人数はそのまま同期のプレイヤーの人数と考えてよさそうです。年度によって3~13人とばらつきはありますが、現在のKBRの規模感と比べても、ほぼ同等かすこし少ないくらいでした。
特筆すべきは、83年度の写真です。女性が2人写っています。確認した代表によれば、すこし長めの聖子ちゃんカットのような髪型で、なぜだかとても笑顔だったとのこと。
もし当時、KBRに慶応生のマネージャーがいたとすれば、これは大きな発見です。もちろん2人が他大生で、その場ののりで一緒に写ったという可能性も否定はできませんが、とても気になるところですね。
一方、大きな謎もありました。79年度のアルバムに1度だけ登場する「Brigands」ユニフォームです。帽子を含め、他の年のユニフォームと比べて、色味もデザインも明らかに異なっています(うすい部分の色は赤か青のように見えました)。
初めは他の草野球チームが混ざっているのかと思いましたが、左袖をよく見ると「KBR」と書かれています。Brigantdは英語で「山賊」という意味のようですが、チームの愛称だったのでしょうか。
近年、毎年世代ごとに作っている学年ユニフォームの走りということも考えられますが、とにかく不思議な写真でした。
①代表の見解によると、金属バットが広く普及したのは1982年夏の甲子園での池田高校(徳島県)の快進撃がきっかけとのことだったので、一応時期は近いと言えます。
②ガス橋緑地野球場は、言わずと知れたKBRのホームグラウンドで、河川敷のためか水はけが極端に悪いことで有名です。なお「ガス橋」は固有名詞で、橋の開通は1931(昭和6)年にさかのぼります。開通当時の動画をYouTubeで見ることができます。

KBR同窓生すべてにとっての思い出の地、ガス橋
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以上、考えられる物証はこのくらいです。
このほか、サークル公認の有無にかかわらず、大学側に毎年提出している団体届出を調べることも考えました。しかし、代表を通じて学生部に問い合わせてみたところ、書類自体を保存していないとのことでした。
これでいよいよ、サークルの過去を物語る資料は尽きてしまいました。
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